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「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ

2024.09.28/ COLUMN

本記事は、北日本新聞(2021年9月1日発行)に掲載された内容を、提供元の承諾を得て転載しています。なお、写真は2024年9月に再撮影したものであり、本文の内容とは異なる場合があります。

ろくろは指先の感覚と経験が全て。

一瞬で出来不出来が決まる。

 

陶芸家の金 京徳(キム・キョンドク)さん(富山県南砺市細野)は水で光沢を帯びた土のかたまりを、あっという間に花のように開かせる。形を整えると、独自に配合した釉薬をかけて焼成する。県内のホテルから注文を受けた器の試作に取り組んでいるところだ。

古い納屋を改装した工房の壁はハングルや数字で埋め尽くされている。「アイデアが出たらなんでも直接書いちゃう。時間がもったいないでしょう。でももう書くところがないね」。マシンガンのような早口で話す。工房の周囲では地元で採れた土を天日干ししている。「南砺の土はさわった瞬間にエネルギーを感じます。穏やかで力強い。人みたいだね」。ギャラリーに並ぶ皿や茶わんの風合いはさまざま。白磁や粉青沙器といった韓国伝統の陶芸をベースにしながら、作風はノースタイルを貫く。「その時に作りたいものを作るんです。〝らしさ〟を決める必要なんてない」と言う。

少年時代を過ごした1980年代の韓国は空前のボクシング黄金期だった。世界王者を何人も誕生させていた。リングに立つことは、血気盛んな少年の憧れだった。中西部の港町で生まれ育った金さんもボクサーになりたかった。中学生になると、ジムに通った。勉強は苦手だった。高校受験に失敗し、意中の学校に入れなかった。「行きたくもない学校に行くのは時間の無駄」と、ソウルでプロボクサーを目指した。しかし、魂を燃やすように汗を流すジムの仲間たちに気後れした。練習するほど才能のなさを自覚した。「自分はグローブをはめて、ただ体を鍛えているだけだった」韓国は学歴社会だ。高校を卒業していない金さんの将来を家族は心配した。陶磁器の産地で働いていた六つ上の長兄が「一緒にやろう」と誘ってくれた。幼い頃に父を亡くしている金さんにとって、兄は父のような存在だった。尊敬はしているが、反発心もあった。しかし、兄は何度もソウルに来て説得してくれた。「努力すれば道が開ける世界だから」という言葉に最後は折れた。「今思えばよかった。あのままだったら道を踏み外していたかもしれない」と振り返る。殴り合う手は、土をこねる手になった。

「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ
「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ

兄がいる工房に弟子入りした。当時の韓国の産地の多くは、分業体制を取っていた。ろくろ、絵付け、窯焚きと、それぞれの工程を専門の職人が担当する。特に重要視されるのがろくろで、技術さえ身に付ければ、引く手あまたの陶工になれた。金さんもろくろ師を目指した。

ボクサーになれず、もう後がないという意識が強かった。寝ても覚めてもろくろと向き合った。夢の中でも土に触り、「こう作るか。どう作るか」と寝言を口にした。

5年ほどすると、さまざまな窯元から声がかかる売れっ子になった。20代前半で韓国の大学教授以上の稼ぎになった。仕事が終わればナイトクラブに出かけ、酒を飲んだ。大金を使い、ギャンブルもやった。しかし、金を使って得られる享楽はどこか虚しかった。「求めているものはこれじゃない。注文通りに作るだけの職人で終わりたくない。作りたいものを作る一流の陶芸家になりたい」。無駄な遊びはやめた。

1997年。依頼を受けて、ある窯元を訪れた。そこに色白の美しい日本人女性がいた。金さんの妻となる小橋真由美さんだった。日本の焼き物のルーツは朝鮮半島にある。その源流に触れたいと、南砺市から韓国の陶芸を学びに来たという。

金さんはろくろの回転による遠心力を自由自在に操る。どんな大きさの器でも一息で成形してみせた。その技術に真由美さんは目を見張った。金さんは熱心に質問を重ねる真由美さんに惹かれた。1年間、辞書を引きながらのデートを重ねた。真由美さんの学生ビザが切れることをきっかけに2人は結婚した。アジア通貨危機で韓国の経済状況が目まぐるしく変わる時期だった。金さんは環境を変えて陶芸をやり直そうと、妻の故郷である日本に移り住むことにした。あてがあったわけではない。自分の腕だけを信じた。腕があっても日本に行けば、ただの20歳の若者だった。陶芸関係の仕事を探したが、ハローワークで紹介されたのは安く大量生産する工場のような産地だった。

自身の足であちこちの産地を巡り、福井県の越前焼の窯元に行き着いた。その社長は金さんの腕前にほれ込み、「あなたほどの人は日本にほとんどいない」と言ってくれた。提示された月給は韓国時代の三分の一だったが、周囲の海と山が気に入った。「何もない。友達もいない。ここなら陶芸に打ち込める」。業務が終われば、自分に合った釉薬の作り方や窯焚きを研究した。「夫は日本に来てから自分の決意や思いを言葉にするようになった。出会ったころの夫は落ち着いていたけど、いつの間にかすごく大きな声になった。飼い猫もびっくりするくらい」と真由美さん。

「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ
「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ

1年たって、自分の窯を構えることにした。妻の実家に移り住み、空き倉庫を借りて創作環境を整えた。生活のため、昼間は土建会社に勤め、重機を操縦した。カルチャー教室で講師を務め、陶芸を教えた。そして家に帰れば、作品制作に取り組むという生活だった。夜中まで新しい釉薬を試したり、南砺の土を韓国の粘土に混ぜたりして実験を繰り返した。

生活の糧を得るための仕事と、自分がやるべき陶芸の間で悩んだ。作りたいのに思うように時間が割けない。陶芸を中断し、子どもを成人まで育ててから再開しようとも考えた。「でも、人生はいつ終わるか分からない。死んだら何も作れない」。稼ぐための仕事をやめ、韓国時代の蓄えを切り崩しながら創作に専念する。お金の必要に迫られたら、陶芸以外の仕事もする。しばらく、そのサイクルを繰り返した。

2008年に南砺市細野の古民家を買い取り、自宅と工房を移転した。築100年以上の古い建物だったが、窓から見える景色は絶景だった。ほとんどを空と里山、田んぼが占めている。「陶芸家としての細胞がここだと言っていた」と笑う。

窯は「かささぎと虎」と名付けた。韓国で、かささぎは縁起がいいとされている鳥であり、虎は勇ましさの象徴。いずれも古くから民衆に親しまれている存在だ。

お金を気にせず、陶芸に打ち込めるようになったのは、ここ数年のこと。特別なことはしていない。ただ好きなものを作った。形も色も自分の思いつくまま。流行に流されることもなかった。それが認められた。

最近、最高傑作と思える作品ができた。南砺の土を焼き締めた陶器と、韓国伝統の白磁を組み合わせたつぼだ。深い赤褐色と透明感のある白色の対比が際立つ。日韓の歴史と自然が溶け合っている。

昨年、南砺市の大福寺住職でとなみ民藝協会長の太田浩史さんから、7年に1度の大きな法要の記念品を依頼された。「金さんの焼き物は使ってこそ美しい。民芸の思想そのものです。韓国の伝統にのっとりながら、南砺の風土の中で地元の土を使い、自分の持ち味を出そうとしている」と太田さんは評価する。

たくさんの陶芸家が富山にいるにもかかわらず、外国人の自分を選んでもらえたことが金さんの自信になった。

「ここだからできるものがある。窯から自分が思う以上の作品が出てきたら、空を飛んでいるような気分。もう中毒ですよ」。日本で、南砺で作るのが楽しくて仕方ない。

■インタビュー後記

金さんはやりたいと思ったことを、必ず口にします。体が自然と動き出す気がするそうです。取材中には「海外で自分の個展を開きたい」と何度も言っていました。最近はフランスでも金さんの器が扱われることになりました。韓国出身の陶芸家が南砺の風土の中で器を作り、海を越えて世界に届きます。夢に近づいています。

 

 

 

企画・制作 / 北日本新聞社メディアビジネス局

ライター / 田尻 秀幸(北日本新聞社)

本記事は、北日本新聞(2021年9月1日発行)に掲載された内容を、提供元の承諾を得て転載しています。なお、写真は2024年9月に再撮影したものであり、本文の内容とは異なる場合があります。

「細胞がここだと言った」
陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ
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陶芸家 金京徳 韓国から南砺へ

企画展「Kim Kyungduk Exhibition」 金京徳 韓国伝統の器

2024年10月5日より51%Store (富山) にて、金さんの個展を開催いたします。その後、51%Tokyo (東京) へ巡回します。
51% Store 会期:2024年10月5日-14日
10月6日(日) 11:00と14:00 の2回、金さんによるギャラリートーク開催

51% Tokyo 会期:2024年10月19日-21日, 26日-28日
Written by 51% Store
51% Storeは、富山と東京に実店舗を構えるライフスタイルショップ。家具や照明、カーテン、ラグ、アート、器など暮らしに関わるプロダクトを取り扱っています。流行に左右されないタイムレスで心踊るデザインを探し続けています。